奈良=平城京の東に位置する興福寺は、奈良時代、平城京を中心に発展した南都六宗の一つである法相宗の大本山で、藤原氏一門の氏寺として絶大な勢力を誇った歴史があります。
同じく藤原氏の氏神であった春日大社とともに、国ぐるみの保護を受けた興福寺は、近隣の東大寺や元興寺などともにに「南都七大寺」と称されたり、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称されたりなどもしました。
今ではこじんまりとなって奈良公園の一角にあるように見えるかもしれませんが、じつは奈良公園そのものが興福寺の境内だったのです。
興福寺の前身は飛鳥の「厩坂寺(うまやさかでら)」で、710年の平城遷都の際に、藤原不比等(ふじわらのふひと)が飛鳥の厩坂寺を移築したと言われます。さらに、天智天皇時代に、鏡大王(かがみのおおきみ)が、大病を患った夫、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の病気平癒を祈願して京都の山科に創建した山階寺が起源という記録もあり、興福寺は二度名前を変えたことになります。壬申の乱の末に都が近江から飛鳥に戻り、山階寺も藤原京へ移って、その地名を取り厩坂寺と改称したのです。
710年以降は、朝廷や藤原氏による庇護の元、平安時代から安土桃山時代にかけて、興福寺は大和国の実質の国主として君臨しましたが、以降はその勢いは衰えてしまいます。
興福寺には、かつては仏像を安置する、中金堂、西金堂、東金堂という三つの金堂が存在していました。
このうち、中心的建造物である中金堂は、焼失と再建が繰り返され、現在また中金堂再建の工事が進んでいます。中金堂の西に建っていた西金堂は焼失して再建されておらず、礎石が跡地に残されています。
東金堂は、726年、聖武天皇が叔母である元正天皇の病気回復を願って建てたもので、当時は五重塔とともに回廊で囲まれ、東金堂院と呼ばれていました。こちらもかつて火災で失われましたが、室町時代、桁行七間、梁間四間、建築様式も奈良時代の天平様式にもとづいて再建され、創建当時の面影を今でも色濃く残しています。その作りは、唐招提寺の金堂と良く似ている(一重の本瓦葺き寄棟造の屋根や、前面一間を吹き放しとし、外側よりも中央の方が柱間を広く取るなど)と言われます。
東金堂の内部には、平安時代に鋳造された銅製の薬師三尊像を中心に、十二神将立像や四天王立像など、数多くの仏像が祀られており、昭和12年には飛鳥時代の仏像頭部が発見されています(平清盛の命を受た平重衡が南都を焼き討ちしたのち、興福寺の僧兵たちが山田寺に押し入って薬師如来像を強奪し、再建した東金堂の本尊に据えたもの)。頭部以外は火災によって失われてしまいましたが、白鳳時代を代表する仏像です。
鎌倉時代に制作された国宝彫刻の半数近くが興福寺にあり、あたかも、運慶、快慶などの慶派の博物館のようであるとも言えます。
興福寺五重塔は興福寺の伽藍を代表する国宝指定の仏塔建築です。
塔の高さは50.1メートル。今でこそ京都、東寺の五重塔に次ぐ規模ですが、1426年に再建された当時は最も高い塔だったといわれます。今でも奈良県内では最も高い建築物の一つです。
5回も焼失・再建されており、現存のものは東金堂と同じく室町時代に再建された6代目の塔です。再建の際に様式が変わることも多いのですが、興福寺の再建はつねに和様建築で、創建時のスマートな古代の塔の姿を踏襲しています。
奈良公園のどこからでも望むことができる五重塔の凛々しい姿は、古くから奈良のシンボルとして親しまれています。奈良公園の池には五重塔が線対称に映し出されますが、その神秘的な光景が人々を魅了します。
境内は奈良観光の象徴として観光客で賑わう大盛況ぶりで、24時間自由散策ができますが、夕暮れや夜に見ることができる五重塔はライトアップされ、夜10時までは闇夜に浮かび上がる圧倒的な姿を眺めることができ、その雄大な木組の存在感が見る者を圧倒します。また「燈花会」の時期には、ろうそくの光が一面に広がる中で、ライトアップされた興福寺を楽しむこともできます。
初層は方三間で8.7メートルで、本瓦葺きの五重塔です。
深みのある重厚かつ豪快な軒など、奈良時代の雰囲気をよく再現しつつ、壮大な中世建築らしさもよく表現しています。
興福寺五重塔は古都奈良を象徴する塔であり、お釈迦様の遺骨を納めるお墓でもあります。
「五重」にわたる建築のうち、一番下部に位置する初層の内部に設けられた須弥壇には、東には薬師三尊像、西には阿弥陀三尊像、南には釈迦三尊像、また北には弥勒三尊像が安置されており、古くからの伝統を守りぬいています。また各層には水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経が安置されています。
五重塔をめぐっては、奈良市の歴史において重要な、明治維新後の廃仏毀釈にともなう苦難の逸話があります。
国宝指定された現在では想像することも困難ですが、当時は無用の長物として「25円」(18円という説もあります)で売却に出され、危うく解体寸前のところだったという逸話です。この値段は「相輪」をスクラップにした程度の金額で、相輪の金物にしか価値がないとみなされたわけです。実際に五重塔に火をつけ、相輪の金物だけを回収しようという計画まであったということですが、人家への類焼のおそれから反対され、無事に今の姿が残っているということです(本当か作り話かわかりません)。
戦後は塔の上部を「展望台」として有料開放され、奈良市街を眺めることができたそうです。
奈良公園のシンボルである五重塔も廃仏毀釈時代には売りに出され、 近世に階段が設けられ最近まで上れることが出来たそうです。
興福寺には、南円堂の西側の低い場所に三重塔もあります。
人目につきにくいので見逃してしまいそうですが、こちらは平安時代に当時の建築様式で創建されたもので、和様化の現われで初重に周り縁がついています。
各重の間口の逓減率で見ると、五重塔の初重、四重、五重が、この三重塔の初重、二重、三重に採用されています。初重と二重目の間口の逓減率が大きくなっているわけです。
この三重塔も、五重塔と同じように廃仏毀釈時代に売却されかかったという話があります。