池に囲まれたモダンな飛鳥文化「中宮寺」

中宮寺

飛鳥時代から続く尼寺

中宮寺は、法隆寺に隣接する聖徳太子ゆかりの寺院です。

山号を法興山と称し、法隆寺文書(聖徳太子伝暦)によれば、聖徳太子が母、穴穂部間人皇女の宮跡を寺としたとされています。

場所は奈良県生駒郡斑鳩町ですが、現在の中宮寺から東へ400mほどの県道9号線沿いに旧中宮寺の跡があります。聖徳太子の宮居である斑鳩宮を中央に、西の法隆寺と対照の位置です。現在の夢殿に隣接する場所に伽藍を構えるようになったとされるのは、江戸時代初期と言われます。
中宮の名は、葦垣宮、岡本宮、鵤宮の3つの宮の中にあったことから来ていているそうです。

出土されている古瓦から、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われます。皇族子女を門跡として迎える尼寺として、法灯を受け継いできました。創建の飛鳥時代から1300年もの間、尼寺の法燈を続けているのは、この中宮寺だけです。

1963年より発掘調査が行われて、金堂と塔の跡が検出されました。金堂と塔の距離が近く、軒を接するように建っていたと推定されます。大阪の四天王寺と同様に、金堂を北、塔を南に並べる伽藍配置であったということで、創建時代の古さを証明するものです。講堂や回廊等の遺構などはいまだに検出されていません。

周囲を池に囲まれたモダンな様相

夢殿のある法隆寺東院のすぐ東に接する子院地にある中宮寺の境内は、とてもシンプルで、本坊に当たる表御殿と庫裏、本堂、それに2010年に落慶した大道場の鳩和殿ですべてです(表御殿と鳩和殿は一般参詣者には非公開)。

本堂は1968年に、鉄筋コンクリートの耐火建築として落慶しました。高松宮喜久子親王妃の発案で、吉田五十六の設計です。吉田 五十八は昭和期に活躍した建築家で、和風の意匠である数寄屋建築を独自に近代化したことで知られます。旧歌舞伎座などが有名です。当時、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトは、桂離宮等の数寄屋造の中に、モダニズム建築に通じる近代性があると評価したため、日本の建築界では数寄屋建築が注目されていました。

中宮寺本堂は、平安時代の寝殿造りの様式で造られていて、苑池に囲まれています。池の中に建てられた柱が大屋根を支えているその様子は、歴史的建造物とは思えないモダンなものです。この本堂には、本尊で国宝でもある木像半跏菩薩と天寿国繍帳残闕のレプリカが安置されているのが、見どころとなっています。

アルカイックスマイルが見どころ

如意輪観世音菩薩像は、半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を左膝の上に置き、右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れているもので、エジプトのスフィンクスや、ダ・ビンチの「モナリザ」と並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれるアルカイックスマイルで有名です。木彫像ですが、長年の燈火や香の煤が付着して黒光りしており、ブロンズ像のようにも見えます。どこか仏像らしくない、瞑想にふける優しく気品のある顔立ち、流れるように優美な造形は、東洋西洋の文化が融合した彫刻としての美しさが結晶したものであると言えます。

一般非公開の表御殿は、江戸時代に建てられたもので、門跡寺院の書院造、登録有形文化財です。本堂の北側に西を向いて建っています。入母屋造りで屋根は本瓦葺、内部には6つの部屋があります。

半跏思惟像と並んで中宮寺が所蔵するのが、飛鳥時代の国宝「天寿国繍帳」です。染織品は保存が難しいものなので、きわめて貴重なものです。平時は奈良国立博物館が委託管理しており、レプリカが安置されています。
これは鎌倉時代に、中興の祖といわれる尼僧・信如が発見した古代染織で、天寿国(極楽)に転生した聖徳太子や動物などが縫われています。刺繍文字などから、法隆寺文書に記録がある「天寿国繍帳」であることがわかっています。元々は柱三間に幕のように掛けられていた大きなものだったとのことです。