日本最古のログハウス「正倉院」

日本最古のログハウス「正倉院」

正倉院は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西にあります。近鉄奈良駅から歩いて25分ほどのところです。建立時期は明確ではありませんが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年前後とされています。国宝指定されており、「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産にも登録されています。

そもそも正倉院という名称は、特定の施設を指す固有名詞ではありません。「正倉」とは、「正税を収める倉」という意味で、各地から上納された米穀や調布などを保管していた倉なのです。記録によれば、奈良時代の官庁や大寺院には、正倉院のような倉が並んでいたとのことです。こういった正倉のある一画を塀で囲った一角を正倉院と称したとのことですが、現存しているのはこの東大寺の正倉院だけです。平安末期にはすでに現存する宝庫は1棟であったという記録があります。
その東大寺正倉院に残る正倉は、かつての正倉院の様子を今に伝えるきわめて貴重な建造物です。

日本最古のログハウス

正倉院正倉は高床式の校倉造という建築様式です。断面が三角形となる横材を井桁に積み上げてた建築様式です。言ってみれば、日本最古のログハウスであるとも言えます。校倉造は世界各地に古くからみられる建築ですが、宝物を湿気から守るためのものだったと考えられます。
かつては、校倉造の利点は、「湿気が多くなるとヒノキが膨張して、木と木の隙間がなくなり、湿った空気を遮断し、湿気が少なくなるとヒノキが縮み、隙間ができて風が通り、室内の湿度を一定に保つから」というふうに学校でも教えられていましたが、その後の研究によって、実際には、巨大な屋根の重い荷重がかかるので、校木が伸縮する余地はないということがわかっています。中から見ると、あちこちから外光が透けて見える状態だそうです。宝物が良い状態で保管されたのは、何重もの箱に収められていたことで湿度調節がされていたからとのことです。
また高床には、虫害や鼠害を防ぐ効果があります。

正倉院正倉は横幅約33メートル、奥行き約9.4メートル、床下約2.7メートル、総高約14メートルという威容です。
屋根は本瓦葺き。床下には横10列、奥行き4列の礎石が敷かれ、巨大な丸柱が建物を支えています。柱の途中に台輪と呼ばれる水平材が渡され、床部分になっています。
内部は北倉・中倉・南倉の3室に分かれており、それぞれ2階建てになっています。北倉と南倉は校倉造ですが、中倉は構造が異なり、厚い板で壁が張ってあります。これは、もともとは北倉と南倉の二棟のみで、中倉は壁も床も無い吹き放しの構造だったといわれます。その吹き放しの部分に壁と床を張り、板倉にして中倉としたとされます。
正倉院の構造
一般の見学用としては、柵があり近くには寄ることはできず、正面からしか見ることができないのが残念です。

正倉院がログハウスだとすると、日本最古のものになります。
地震に強い構造をもつといわれるログハウスが誕生したのは、上高地が日本アルプスとして世界に紹介されて海外からの観光客も増えたことから建てられたログホテル「上高地帝国ホテル」(1933年)が最初だといわれていますから、その1200年近く昔に、日本人はログハウスの知恵を持っていたのですね。

その後、日本の倉は、木材資源の節約と防火の面から、徐々に土蔵へと移り変わっていきました。

正倉院の宝物たち

正倉院の宝物は、聖武天皇を亡くした光明皇后が、四十九日の法要の後に、聖武天皇の愛要品を東大寺に納め、大仏をはじめとする御仏に捧げたのが始まりといわれます。のちには、聖武天皇の遺品だけでなく、東大寺の大仏開眼儀式で使われた品など、奈良時代を代表する宝が約9,000点も保管されています。天皇や貴族の生活用具、楽器、遊び道具から、楽人や役人の服、さらにシルクロード諸国のものまで様々な宝物があります。

  • 赤漆文欟木御厨子
  • 平螺鈿背八角鏡
  • 金銀山水八卦背八角鏡
  • 鳥毛立女屏風第4 部分
  • 羊木臈纈屏風
  • 銀薫炉
  • 蘇芳地金銀絵箱蓋
  • 黄金瑠璃鈿背十二稜鏡
  • 鳥毛立女屏風
  • 鳥毛篆書屏風
  • 鳥毛帖成文書屏風
  • 象木臈纈屏風
  • 羊木臈纈屏風
  • 紫檀木画挟軾
  • 御床
  • 花氈
  • 青斑石鼈合子
  • 蘇芳地金銀絵箱
  • 白橡綾錦几褥
  • 紺夾纈絁几褥
  • 蘭奢待
    • 正倉院に安置されていた宝物は、今は、鉄筋コンクリート造の宝庫に移されています。