国宝十二神将立像で有名な新薬師寺は、御蓋山の南側に広がる高畑町界隈の東側、春日大社南の住宅地にある華厳宗の寺院です。白毫寺・高円山などからも遠くないこのあたりは春日大社の神官たちが住居を構えていた自然豊かな社家町です。
「新」薬師寺という名前は「新しい薬師寺」という意味ではありません。「霊験新たかな薬師如来様を祀ったお寺」という意味だと説明されており、西の京の有名な薬師寺とは宗派も異なれば創建の由来も異なり、まったく無関係です。「本家の薬師寺を見ておけば十分」といった誤解をしてしまう観光客も多いのではないでしょうか。
年始には五色幕で彩られるという本堂の姿には時代を超えた美しさがあり、こぢんまりとした境内には、天平時代に建造された本堂を中心に、鎌倉時代の建造物が残されています。
新薬師寺はもともとは奈良時代に大仏造営で有名な聖武天皇の病気平癒祈願のために創建された官寺です。建立は747年で、東大寺大仏の鋳造が開始された年でした(大仏の開眼は752年、大仏殿竣工は758年)。
今でこそ小さな寺院で、ぐるりと見て回るのにもさほどの時間を要しませんが、8世紀後半には、金堂や東西両塔をはじめとする多くのお堂が建ち、南都十大寺に数えられるほど壮大な伽藍を誇る大寺院でした。
四町(約436m)四方という広大な境内に七堂伽藍甍を並べ、境内には100人以上の僧侶が修行していたという記録があるそうです。奈良教育大学の敷地からは、東大寺大仏殿よりも大きな新薬師寺の建物跡が発掘されており、キャンパスがそっくり新薬師寺の境内に含まれていたことがわかっています。
唐招提寺よりも大きな金堂があったなど、現在の姿からは想像できないような風景であったとのことです。
そのような大寺院が、なぜ今のように規模が小さくなってしまったでしょうか。
他の多くの寺と同様、繁栄の「奈良時代」を過ぎると、寺の勢いは衰退し、災害等により多くの建造物が失われました。
まず、伽藍の完成直後である780年に雷が落ち、境内はたちまち炎に包まれて東西の塔が落雷で焼失。962年には台風で金堂などが倒壊、以後は荒廃して往時の規模に戻ることはなく、今ある本堂だけが残りました。
鎌倉時代に華厳宗の高僧明恵上人によって再興がなされ、境内の再整備がなされました。落雷火災を免れた壇所(もしくは食堂)を改造して本堂とし、その周囲に諸堂や門などの建物を新たに建立しましたが、以前の規模には戻りませんでした。
門をくぐると、低い二重基壇の上に建つ本堂が見えてきます。
作りはシンプルで素朴、正面7間、側面5間、創建当初から唯一残る天平時代のの入母屋造です(国宝指定)。
鎌倉時代の改修時、前面に庇、天井、虹梁に蟇股、内法長押が追加されたそうですが、明治時代の修理の際にそれらは全撤去されたとのこと(これは古建築修復についての一大論争を引き起こしたそうです)。
屋根は一重の入母屋造で、本瓦葺。内部の天井と一緒になった化粧屋根裏で、緩やかな勾配が天平時代の建築であることを現しています。まさに「天平の甍」です。
正面中央3間と、左右背後の中央1間に戸を設け、それ以外は全て白壁となっており窓はありません。
中に入ると、中央間は広く、絵が描かれた円柱が40本使われています。
天井を設けず、屋根板の裏側の垂木を直に見渡せる簡素な化粧屋根で、巨大な吹き抜けのようになっていて、外見よりも高さがあるように感じられます。
本堂の一部にステンドグラスをはめ込んであるのがユニークです。
床は瓦の敷かれた土間で、その中央には漆喰で固められた巨大な円形の仏壇が設けられています。このような形式の仏堂は珍しいそうです。
仏壇の正面に本尊の薬師如来坐像が鎮座し、その右手から円陣を組んで十二神将立像が安置されています。
平安初期の制作である「薬師如来坐像」をはじめ、1854年の地震で失われて後の捕作した宮比羅(クビラ)大将以外はすべて国宝指定。これだけ多くの国宝の仏像と間近に対峙できる場所は、かなり希少で、これを見るためだけにでも訪れる価値は十分あります。
暗がりに目を凝らすとその圧倒的威容を表す、薬師如来坐像本尊、そして円を描いて取り囲み守護する十二神将像。
まず薬師如来坐像ですが、1.91mという巨大なもので、カヤの一木造です。通常より目が大きく表現されているのは、先に述べた通り、聖武天皇の眼病平癒を祈願するためだと言われています。目鼻立ちがはっきりしていて、全体的にふくよかな印象です。
一部に墨や朱が使われている以外は、彩色や漆箔はなく、素木で仕上げられています。
光背には6体の化仏が配置され、本体と合わせて七仏薬師が表現されています。
光背のモチーフはアンカンサスというシルクロード由来の植物です。
制作年代は記録がなく不明ですが、平安時代初期・8世紀末頃の作と見られます。
圧倒的な存在感で薬師如来を守る十二神将立像は、奈良時代の作ですが、最古の十二神将像として非常に貴重なものです。当時流行した塑像(木を骨組みに粘土で肉付けしていく)という造仏様式でできています。
もとから新薬師寺にあった仏像ではなく、高円山麓の岩淵寺から移したものと伝えられますが、造立の事情は不明です。
甲冑をつけた武将の姿で表現されていますが、化身した姿であり如来や菩薩などの本当の姿(本地仏)が存在します。十二神将は12の時、12の方角、12の月を守るとされており、十二支と関わりがあります。
創建当時は鮮やかな彩色がされていたそうです。
怒髪天をつく表情、神々しく力強い体躯、長く見ていても飽きない濃密な空間です。
本尊薬師如来を守る勇ましい十二神将は、何を守っているのでしょうか。
天平の時代は、度重なる飢饉や疫病など、災いの多い世の中でした。
多くの人が亡くなり、また天皇の後継をめぐって、激しい戦いが繰り広げられました。
仏教に救いを求めた聖武天皇が巨額の費用を投じ、国をあげて大仏の造立に取り組んだまさにその時代、新薬師寺も建てられました。
日本を代表する写真家土門拳は、新薬師寺の本尊である薬師如来座像に魅せられた人の一人で、「新薬師寺 薬師如来の眼玉」という文章を残しています。
堂々たる量感と共に、流動的な軟らか味もあって、仰ぎ見ているうちに、その幅の広い厚い胸にすがりたくなるような頼もしさを感じさせる
殊に、その顔は豊かな頬と大きなドン栗眼玉を持っていて、ちょっと呑気な父さんと言いたいような印象を与える
薬師如来の姿にも、十二神将の姿にも、当時の人々の切実な思いが込められているように感じられます。