町屋が軒を連ねる独特の風情の旧市街地、奈良町。元興寺は、その奈良町の一角に佇む、南都七大寺のひとつに数えられる寺院です。
七大寺とは、興福寺、東大寺、西大寺、薬師寺、大安寺、法隆寺、そしてこの元興寺のことを指します。
元興寺の前身は、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の仏教寺院・法興寺。
飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっていますが、794年の平城京遷都にともない、飛鳥から新都へ移転して元興寺となったのです。
奈良時代には、南北約440メートル、東西約220メートルもある、東大寺、興福寺と肩を並べる大寺院だったそうです。
平安時代に入ると徐々に衰退し、中世には天災や土一揆などによって伽藍も荒廃し、民家が寺域に立ち並びはじめたのが、現在のならまちとのこと。
極楽堂の西側には、やはり国宝指定されている禅室があり、僧侶の寝起きする僧房として使われていました。
禅室は鎌倉時代の建築様式ですが、奈良時代以前の古材も多く再利用されているそうです。中世には春日影向堂とも呼ばれ、近世に客殿、近代には学校舎にも使われていたとのこと。
本堂と禅室を眺めがら奥まで進み、振り返ると、禅室の南面と極楽堂西面の屋根に、丸い瓦が重なる「行基葺」(ぎょうきぶき)と呼ばれる独特な並べ方をされた軒瓦を見ることができます。
じつは、これは、元興寺の源流に当たる法興寺創建当初の軒平瓦が使われているのです。
蘇我馬子や聖徳太子が活躍した1400年前の飛鳥時代の瓦が、破損もせずに、今なお現役で禅室や極楽堂の屋根を飾っているとは、ちょっと信じがたいような感じです。
現在の瓦とくらべれば、色も形も大きさも厚さもまちまちで不揃いですが、その圧倒的な存在感は、表現する言葉が見つからないほどです。
ここで、瓦というものの歴史を振り返ってみましょう。
その発祥は5000年前のメソポタミア、インド、中国、古代バビロン、ギリシャなど諸説がありますが、588年頃に大陸から日本に伝えたのは、百済から来た麻奈父、奴陽貴、文陵貴、文昔麻帝弥という4人の「瓦博士」だったという記述が日本書紀に残されています。彼らはお寺を作る寺工(てらたくみ)という技術者に同行していたのですね。
土器のことを「カワラケ」と呼びますが、日本書紀には、甲冑を指して「カワラ(伽和羅)」としている記述があります。これは亀の甲羅のように固く上を包むという意味だそうですが、屋根瓦の「カワラ」はそこから来ているのではないかという説もあります。
その瓦博士によってもたらされた技術によって、最初に瓦が使用された建物が、蘇我馬子が建てた法興寺(飛鳥寺)。完成は596年です。先ほど書いたように、その法興寺が710年の遷都にともなって平城京に移転され、名前が変わったのが元興寺なのです。
昭和30年代に元興寺の解体修理をした際、瓦も屋根から降ろして調査したところ、たしかに法興寺の創建時に使われていた瓦が約170枚残っていたことが確認されました。
瓦による寺の建築技法はその後も近畿地方を中心に広まり、694年には、持統天皇が藤原京に建てた藤原宮に、寺でしか使われていなかった瓦が使われ、それを機に、平城京、長岡京、平安京などにも広く瓦が使われるようになりました。奈良時代724年には、聖武天皇は、五位以上の地位と財力を持った庶民はなるべく瓦を使ったほうがよいと大政官令で述べ、平城宮には「瑠璃瓦」、平安京には「碧瓦」が葺かれました。唐様式の影響を受けた唐三彩用の鉛釉に、銅を発色剤とした緑色の瓦で、実用品としても美術品としても最高のものです。
そして日本各地に国分寺、国分尼寺が建てられ、東北地方から九州地方まで瓦の製造方法、施工方法が日本各地に広がり、瓦の普及につながっていったのです。あまりにも急激に普及したことで、瓦を生産する技術者が不足し、需要に供給が追いつかずに、瓦の質が低下してしまうほどでした。
雨漏りや地震、台風などでずり落ちたりする被害が相次ぎ、平安時代になると瓦ブームも下火になります。山間部では瓦の製造、瓦の運搬ができず、平地よりも気温が低いために、檜皮葺き(ひわだぶき)に移行しました。
室町、桃山時代には、瓦の量は少ないものの、法隆寺などの寺には専属の瓦大工がおり、伝統が守られていきます。釘を使わずにずり落ちない瓦を発明し、法隆寺南大門の屋根を葺いた瓦大工・寿王彦次郎橘吉重などの名が伝えられています。
現代の製瓦の基礎である「燻し瓦」が伝えられるようになったのは、戦国武将によって城に瓦が使われるようになった頃で、織田信長の安土城は表面に漆を塗ってから金箔を押した金瓦が用いられました。この頃から築城ブームが始まり、瓦は寺から城へと使用範囲を移していったのです。
江戸時代には一国一城令が出された後は築城されなくなり瓦も減少しました。
また、1657年の明暦の大火では10万人もの死傷者が出て、消火活動の際に重い瓦が落ちて危険だということから瓦禁止令が出ました。町人に贅沢な屋敷を造らせないための牽制でもあったと言います。
近江大津の瓦工・西村五兵衛正輝は江戸の火除瓦(ひよけがわら)を見て、本葺瓦の平瓦と丸瓦を一つにまとめた桟瓦を10年がかりで完成させます。これは「江戸葺瓦」「簡略瓦」などとも呼ばれます。1720年の江戸の大火後は逆に瓦葺きが奨励され、10年年賦の「拝借金制度」によって、庶民も瓦を葺くことができるようになったそうです。
今では、元興寺は、極楽院の後裔に当たる極楽坊のことも指します。
重要文化財に指定されている、鎌倉時代風の極楽坊の正門(東門)は、応永年間に東大寺西南院四脚門を移建したものです。
これら、智光法師によって感得された「智光曼荼羅」をまつる塔頭の極楽院が、聖徳太子信仰・地蔵信仰を中心とした民間信仰のメッカとなったためです。「智光曼荼羅」は小さいものなので、本尊の裏面に智光曼荼羅の拡大写真で細部を見ることができます。。
極楽堂は、国宝指定で、曼荼羅堂とも呼ばれています。
元興寺には、大きな阿弥陀如来坐像(平安時代中期の作で、重要文化財)、聖徳太子立像 (鎌倉時代の作で、これも重要文化財)をはじめとする木造の千体仏・小塔など、数多くの貴重な文化財がありますが、ほとんどは、境内南隅の「法輪館」に収蔵・展示されています。
また、石造物のメッカでもあります。「浮図田」(ふとでん)と呼ばれる境内の南西部分には、見る者を圧倒するような数の石塔・石仏が所狭しと並べられています。中世から近世にかけて元興寺に奉納された石造物です。
しかし世界遺産・元興寺の見どころは、なんといっても、幾千もの時を超えてきた日本最初で最古の瓦です。
飛鳥時代の屋根瓦に代表される古代以来の法統の、豊かな歴史と貴重な文化財の数々を多くの人に楽しんでほしいと思います。